変容する家 | 東アジア文化都市2018金沢

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STORY

加賀藩のまちづくり・街並みの不思議

金沢のまちでは加賀藩の遺構を自然と目にすることができます。
展示エリアの街並みで見つけた素朴な疑問には、
加賀藩のまちづくりの特徴が詰まっていました。

取材協力:金沢市文化財保護課
挿絵:北村紗希


野町にある「六斗の広見」は金沢で一番大きな広見。

──金沢城の特徴はなんですか?

金沢城は浅野川と犀川に挟まれた小立野台地の先端に築かれた平山城です。搦手には百間堀を築いて台地と分断し、防御性の高い升形門形式の石川門を配置しています。天然の地形をうまく利用しながら、高石垣や堀、升形門や櫓など、防御性の高い建造物の配置を駆使して築かれたお城です。

──なぜ石引通りは真っ直ぐなのですか?

金沢城の石垣には東部山間地で産出される戸室石が使用されました。石材を城内に運び込むため、運搬専用道として延長約10.7kmの石引道が整備されました。石引通りはその最後の区間として、天徳院脇から城内まで直線で整えられました。戸室石は藩の許可なく使用がゆるされないことから「御留石」とも呼ばれ、金沢城石垣の建設には欠かせない石でした。

──金沢にはなぜ多くの用水が流れているのでしょうか?

金沢には55水系総延長約150kmに及ぶ用水が市街地を潤しています。用水には灌漑、防火のほか、生活用水や環境用水という機能があります。辰巳用水は、寛永9年(1632)完成とされ、金沢城の防火のために築造されたもので、兼六園の曲水にも利用されています。泉用水は完成年は不明ですが、開削の記録は宝永2年(1705)までさかのぼり、旧米丸村増泉、旧三馬村泉、西泉の灌漑のため築造されたと伝わっています。

──なぜ3つの寺院群は高台にできたのですか?

近世城下町において寺院群が形成されることは一般的ですが、軍事的な意味合いに加え、城下の空間利用の区分や都市整備の一環として金沢には特徴的な3つの寺院群が形成されました。卯辰山山麓・小立野台・寺町台の寺院群は、寺院数とその規模において全国の城下町を代表するものといえるでしょう。

──広見は何のためにつくられたの?

広見は、藩政時代に火災の延焼防止のためにつくられた火除け地が由来といわれています。広見に類する空間は他都市でも見られますが、広見の呼称は金沢独特のものです。広見は、寛永期に起きた2度の大火後、城下町の再整備にともない設けられたものと考えられ、明治以降は地域の多目的広場としての機能も有していました。