路上、お邪魔ですか?

2026年4月25日(土)〜9月6日(日)

インフォメーション

期間:

2026年4月25日(土)〜9月6日(日)
10:00~18:00(金・土曜日は20:00まで)

会場:

金沢21世紀美術館 展示室
7〜14、デザインギャラリ、レクチャーホール

料金:

一般 1,200円(1,000円)
大学生 800円(600円)
小中高生 400円(300円)
65歳以上の方 1,000円
※本展観覧券は同時開催中の「コレクション展」との共通です
※( )内はWEB販売料金と団体料金(20名以上)
※当日窓口販売は閉場の30分前まで

休場日:

月曜日(ただし5月4日、7月20日は開場)5月7日、7月21日

路上には、自由と邪魔が同居しています

かつて日本には、公界と呼ばれる一定の制度や権力の及ばない自由な空間が存在していました。寺社の門前や宿場町に見られた領域は、移動する人々や芸能を受け入れ、文化や交流を育む装置でもありました。
現代における「路上」は、そうした歴史的空間と完全に重なる訳ではありませんが、所有や統治の枠組みが曖昧で、ときに制度へのレジスタンスによって、路上に自由を見出そうとしてきました。一方で路上は、単に自由や解放の象徴だけではありません。排除の論理によって居心地の悪さや不安定さも抱えています。
本展では、路上をキーワードに紹介可能な作品や歴史的なできごと、さらには言説をふくめ、現代においてますます複雑になる公共性がもつ課題を考えます。
本展の開催は、1986年に発足した「路上観察学会」の創設40周年も契機としています。赤瀬川原平や藤森照信らによって結成された路上観察学会は、意図をもって生み出された芸術作品ではなく、都市と自然とが意図せず生み出した状況を、可笑しみをもって取り上げる「目」を、メディアを通して共有した活動です。そこには路上がもつ豊かさを伝えるとともに、開発によって均質化した都市への批判も込められていました。
「彼女が邪魔だった」 ― これは、2020年に渋谷で起きた路上生活者殺害事件で、加害者が発した言葉です。路上は、所有が曖昧であるがゆえに公序が強調され、時に他者の主観的ルールが衝突する息苦しさを孕んだ空間でもあります。2020年の事件は、公共性の意味を取り違えたときに起こりうる取り返しのつかない暴力を私たちに突きつけました。
それでも、この「自由」と「邪魔」が共存する路上においてこそ、批評的な文化実践が数多く立ち上がってきたのです。本展は、現代美術から歴史的資料、テレビゲームや銭湯、大道芸までをも紹介しながら、路上は誰のものか?をキーワードに、過去の実践から現代の都市に対する批評的なアプローチまでをたどりながら路上の公共性を探ります。批評とユーモアの喧騒に溢れた、路上の芸術に出会いにきてください。

関連プログラム

【イベント】 誰がためのストリート? 歩くことから考える都市と大地の交わり/せめぎ合うところ

日時:2026年5月16日(土)
会場:金沢21世紀美術館 シアター21
主催:COMO×GOMO ~交通×まちづくり STUDIO~
共催:金沢21世紀美術館[公益財団法人金沢芸術創造財団]
協力:チームW・研修センター、社会福祉法人石川県聴覚障害者協会
ゲスト:池田豊人(現香川県知事、元国交省道路局長)、中島晴矢(アーティスト)
※要事前申し込み

路上観察学会 40周年記念シンポジウム(仮)

日時:2026年8月1日(土) 13:00〜16:00
会場:渋谷区文化総合センター大和田 さくらホール
主催:路上観察学会
協力:金沢21世紀美術館[公益財団法人金沢芸術創造財団]
登壇:藤森照信、南伸坊、林丈二、松田哲夫、荒俣宏(予定)
※要事前申し込み

出展作家 ※路上観察学会を除き展示順

  • 路上観察学会(赤瀬川原平、藤森照信、林丈二、南伸坊、松田哲夫、杉浦日向子、荒俣宏)、鈴木康広、ギリヤーク尼ヶ崎、panpanya、鯨津朝子、中村裕太、國府理、Chim↑Pom from Smappa!Group、山田脩二、迫川尚子、児玉房子、ダニエル・エヴェレット、クシシュトフ・ヴォディチコ、銭湯山車巡行部、村田あやこ

広報物・展示デザイン

  • 広報印刷物グラフィック:西岡勉
    会場グラフィック(本展全体):西村祐一(Rimishuna)
    会場グラフィック(デザインギャラリー):北原和規(UMMM)
    会場グラフィック(中村裕太作品):軸原ヨウスケ
    会場グラフィック(レクチャーホール):神子澤知弓
    展示デザイン(展示室11):山本周、頼安ブルノ礼市
    展示デザイン(デザインギャラリー):片田友樹(micelle ltd.)

路上を語る7つのセクション

  • 車道や歩道のみならず、露地や公園、さらには考えがすれ違う言語の空間までも含め、本展はそれらを「路上」と呼んでいます。いずれにせよ共通するのは、それがいずれも共有された土地(shared ground)という点です。自由で開かれているように見えながら、ルールや慣習、他者の視線によって、つねに振る舞いが調整される場所でもあります。同時に、人びとは遊び、表現し、ときに逸脱しながら、路上の姿は絶えず変化してきました。本展は、そうした路上をめぐる実践のこれまでとこれからを、さらに会期中も変化する仕組みも含めて、つぎの7つのセクションに分けて紹介します。本展を通して、さらに路上を通して、いかに生きるのかを考えるプラットフォームになってほしいと考えています。

  • ギリヤーク尼ヶ崎 札幌公演(2018年8月)
    撮影:植村佳弘

    遊びとハック(展示室14、光庭3)

    展示作家: 鈴木康広/株式会社セガ/ギリヤーク尼ヶ崎

    私たちが都市で共に生きるために、一定の秩序が求められます。しかし、その秩序はときに客観性を欠き、完璧なルールが存在するわけでもありません。鈴木康広《遊具の透視法》(2001)は、かつて多くの公園に当たり前のようにあった球体の回転遊具(グローブジャングル)を用いた作品です。昼間に遊ぶ子供の姿が、夜になると遊具の表面に残影として映し出されます。この作品は、回転する遊具そのものがスクリーンとなりますが、それを回す他の鑑賞者の存在によって、初めて像が立ち上がります。グローブジャングルもまた、登る者と下で回す者によって成り立つ遊具です。誰かに自分の身体を委ねることで遊びが成立するこの遊具には、そこに、公園における小さな秩序のあり方が見えてきます。こうした秩序のつくり方は、大人の世界でも見られます。95歳の現役大道芸人、ギリヤーク尼ヶ崎は、都市の雑踏のなかで人々がつくる「円」に見守られながら踊ってきました。渋谷や新宿、京都、そして札幌の路上で、半世紀にわたり公演を続けてきました。彼が最初にチョークで路上に描く円は、踊るための舞台であると同時に、安全な場をつくるための合図でもあります。一方で、秩序はときに暴力も伴います。それをコミカルな表現でゲームを通して伝えてくれるのが株式会社セガが、2000年に発表した「ジェットセットラジオ」です。プレイヤーは都市を滑走しながら、グラフィティを描き、それを「ケーサツ」と呼ばれる存在が追跡します。秩序を守る彼らは、迷惑行為を取り締まる名のもとに、銃による暴力さえも正当化します。このゲームは、秩序を守るはずの行為が、かえって都市を混乱させていくという逆転を描き出しています。本セクションでは、遊具を回すこと、踊ること、ゲームをプレイすることを通じて、小さな逸脱とそれを生み出す構造に目をむけます。遊びやハックは、ルールに従うこととは異なるかたちで、もうひとつの秩序を立ち上げていく実践です。

  • 中村裕太《チョウの飛ぶ道》2018年

    道路以後(展示室12、光庭2)

    出展作家・団体: 高松市/中村裕太/panpanya

    道路は、もはや人間のためだけの場所ではありません。そこを行き交うのは、人や車だけでなく、電気や情報、そして動植物です。こうした日本の道路の今の姿は、戦後の高度経済成長の自動車の普及とともに、急速に整備されました。一方で車は歩く人々を押し退け、1970年代には死亡事故の被害者の二割を未成年が占めるなど、道路を歩くことすら困難な状況を生みました。さらに道路の起源を辿ると、約二千年前の中国とイタリアに遡ります。秦時代の長安と、アッピウス・クラウディウス・カエクスによる古代ローマで、道路は軍隊を迅速に移動させるインフラとして整備されました。日本でも古代律令制のもと七道駅路が整えられ、地方の情報が中央に届けられました。近代になると、明治政府は鉄道の敷設に力を注いだため、道路の整備は遅れ、道路法が整備されたのは大正8年のことでした。さらに3年後に、全国で統一された道路標識を定める「道路警戒標及び道路方向標」が制定されます。その法令に基づく標識の形をとどめるものが、香川県高松市塩江で発見されています。かつての国道脇に、ひっそりと残っていたその標識に記された文字は「屈曲多シ」。こうして整備された道路ですが、そこを利用するのは、人や車だけではありません。電柱や電信柱を通じて、電気や情報が運ばれ、犬がションベンをし、猫が塀をよじ登り、鳥は電線を掴みます。こうした路上の他者を、中村裕太は新作を通して可視化します。金沢市内の電柱広告を使い作られる新たな作品は、こうした路上の他者へと視線を向けることを促します。また、漫画家のpanpanyaがわずか6コマのマンガのなかで提示するのは、当たり前のように都市が移り変わることが、実はとても不思議なことであるという逆説的な状況です。いつも歩いていた場所が、建物が取り壊されても過去の風景を思い出せなくなることは多々あることでしょう。道路の風景は、昨日も今日も同じものではないのです。本セクションでは、道路という一見ドライな存在に対して、人や自動車のみならず、他なる生き物たちとの関係性にも重ねながら、わたしたちの道路との付き合い方について考えます。

  • 路上観察学会 発会式 1986
    ©飯村昭彦

    路上の発見(展示室11)

    出展作家: 路上観察学会

    「目玉にとって、新大陸の発見であります。」この言葉とともに、都市における「路上」という新たな大陸が、路上観察学会のメンバーによって見いだされました。1986年6月10日、神田の東京学士会館に集まったのは、赤瀬川原平や藤森照信をはじめ、路上に思わず目を奪われてしまった面々でした。この日、路上観察学会が発足します。ん?と思う街なかの不思議なもの。それらを「物件」と呼び、写真を撮って共有していきました。それらは、赤瀬川の言葉を借りれば超芸術です。作者が明確に存在せず、役に立たず、非実用であるにもかかわらず、芸術を超えた芸術として立ち現れるもの。路上観察とは、こうした超芸術を写真に収め、品評会という形式で共有する実践でした。誰かが撮った写真に、別の誰かが言葉を添える。そのやりとりのなかで、誰も気づかなかった意味や価値が、あらたに見いだされていきます。こうした「見立て」の積み重ねは、道路という言葉がもつ、一見そっけなく無機質なイメージを、認識のレベルから組み替えていきました。2026年は、路上観察学会の設立から40年にあたります。いまや「路上観察」という言葉は一般名詞のように用いられ、若い世代もまた、レトロな建物や片手だけ落ちた手袋、軒先の路上園芸へと眼差しを向けています。本セクションでは、超芸術トマソンや建築探偵団など、路上観察学会の活動を手がかりに、その40年を振り返ります。そこに見えてくるのは、路上そのものを変化させるのではなく、目玉の革命によって新大陸を発見してきた過程です。

  • 鯨津朝子
    ZAK 現代美術センター(シュパンダウ城塞、ベルリン)2023
    撮影: Dmitry Kireev

    通過への抵抗(光庭2、展示室8)

    出展作家: 鯨津朝子/國府理

    「道路」という言葉を構成する「道」と「路」は、いずれも「みち」と読まれます。しかし、その意味は同一ではありません。道(みち)は、兵士の輸送路として整備され、立ち止まることの許されない空間でした。一方、路(みち)は、商いや芸能が行われる交流の場でした。同じ「みち」でありながら、そこには異なる時間が漂っています。戦後に建設省を中心にすすめられた全国総合開発計画によって、道路や新幹線が全国へと延びていくなかで、移動時間の短縮が正義とされ、空間は時間によって測り直されました。この感覚は、乗り換え検索で所要時間が重視される現在の価値観にも引き継がれています。こうした時代を背景に、見るものによって空間と時間の認知が異なることを、デザイナーの杉浦康平は「犬地図」として示しました。人間とはまったく異なる嗅覚をもつ犬の世界を地図として表したものです。杉浦はそのテキスト「知覚系の主語」において、「知覚項の種類がn個あれば、n個の主語によって知覚系が記述されてよい。主語の権利はn個分だけ同等にある」と述べています。そうした路上の時空間に気づきを与えてくれるのが、鯨津朝子と國府理の二人の作品です。鯨津の作品は、空間の中にいくつもの線を配します。アナモルフォーズ(歪像法)の手法によって引かれたそれぞれの線には、連続して滑らかに繋がってみえる特定の視点場が設けられています。しかし、鑑賞者が動いた次の瞬間、その線はバラけて断片へと分解されます。彼女がそれを「逆彫刻(inverse sculpture)」と呼ぶように、線は静的でありながらも、作品全体を一度に把握することは出来ず、必ず移動を伴う作品です。移動と停止を伴うこの作品は、それを取り巻く空間そのものを変容させることを可能にします。無料の交流ゾーンと、有料の企画展ゾーン。美術館の運営上、ガラスによって仕切られているこの二つの空間を、横切る線によって、SANAAが20年以上まえに公園として設計した当館の本来の均質空間を取り戻します。また國府の《自動車冷蔵庫》もまた示唆的です。冷蔵庫という「冷やす」技術は、自然の時間の流れに逆らう行為でもあります。保存のために時間を引き延ばす冷蔵庫と、路上を走り移動時間を短縮する自動車という、異なる時間性をもつ二つの装置を一体化させたこの作品は、「時の流れは一方向ではない」という感覚を可視化します。これらの試みは、空間を単一の物差しで測るのではなく、多主語と時間によって捉え直す契機を与えます。

  • 迫川尚子
    お面をかぶっておどける新城さん。沖縄出身。右翼の街宣車だろうか。君が代が流れると頭をかかえてうずくまった。
    1996年8月
    ©迫川尚子

    道か、広場か。(展示室9、10)

    出展作家: Chim↑Pom from Smappa!Group/山田脩二/迫川尚子/児玉房子

    いま、新宿駅西口にあったかつての「広場」が姿を消しつつあります。1966年、建築家・坂倉準三は《新宿西口広場》を設計しました。地下に大きく口を開く駐車場への渦巻くスロープは、地上と地下を視覚的につなぎ、立体的な広場を生み出していました。車と人、電車とが交錯するジャンクションとして、世界的にも稀な空間でした。しかしこの広場は、竣工後まもなく「広場」としての資格を剥奪されます。1969年、ベトナム戦争への反対を訴える若者たちが集い、議論を交わす場となったこの場所で、警察との衝突が起きました。行政はここを「公道」であると位置づけ、排除へと転じます。看板は「広場」から「通路」へと掛け替えられ、立ち止まることすら管理される空間へと変質しました。公共の場は、こうして容易に奪われてしまうのです。1990年代、不況のなかで失業者が集まり、地下にはダンボールハウスの村が生まれます。1995年には、アーティストたちが居住者の許可を得て、ダンボールハウスに絵を描く活動を始めました。同時に、後に「排除アート」と呼ばれる突起物も設置されていきます。こうした状態は数年続きましたが、1998年の不審火による火災によって、ダンボール村は消失しました。いま、新宿西口の地下は再開発によって、こうした記憶そのものが失われようとしています。本セクションでは、「道か、広場か」という問いをめぐる歴史と実践を、アーティストと写真家の記録からたどります。Chim↑Pom from Smappa!Groupによる《道》は、美術館の内部に「道」を通すという試みです。許可を取りデモを行うなど、「道であれば可能な行為」を実際に持ち込み、美術館がこれまで担ってきた公共性の限界を突き抜け、新しい道と広場の境界を問い直しました。写真家・山田脩二は、1969年の新宿西口におけるフォークゲリラの姿を撮影しました。スロープを占拠した若者たちの写真は、その後も繰り返し参照される歴史的瞬間を写しています。迫川尚子は、1996年からダンボールハウスとそこに暮らす人々を継続的に撮影しました。児玉房子は、ストリートに集う若い世代の文化を写し出します。流行に揺れ動きながら、まだ自分たちの居場所を探しているような、危うさとエネルギーが路上にあふれています。どこかアンニュイで、頼りなげにも見えるその佇まいは、ときに危なっかしく映るかもしれません。しかしそれは同時に、社会のなかに滞留するエネルギーが、かたちを変えて現れている状態でもあります。

  • ダニエル・エヴェレット《Untitled (from Marker)》2024
    © Daniel Everett

    ルール(展示室7)

    出展作家: ダニエル・エヴェレット/クシシュトフ・ヴォディチコ

    信号、標識、白線、防犯カメラなど、私たちは多くのルールに囲まれながら、生活しています。自由に見える路上は、同時に細かなルールによって編み上げられた空間でもあります。そうした管理の論理を、道路はその出自から包含しています。道路は、国家が統治を容易にするインフラとして整備されました。つまり逆説的に、道路は人に奉仕しているように見えて、実際には人の移動や経済活動を通じて国家の秩序を再生産する装置でもあります。私たちの都市の根底には、この「道のヒエラルキー」が組み込まれており、知らず知らずのうちに人間そのものよりも優先されているという点で、すでに管理の論理が内在化しています。数学者のクリストファー・アレグザンダーが『都市はツリーではない』と批判したのは、こうした秩序の固定化を批判し、むしろ重層的で重なり合うネットワークとして都市をとらえようとした試みでもありました。路上を構成する重要な「道路」には、こうした自由と管理の二重性――すなわち、開かれているようで閉ざされているという構造―が潜在的にあるのです。路上の思想はその矛盾の上にしか成立しえません。写真家ダニエル・エヴェレットは、こうした路上のルールを、写真を通して可視化してくれます。監視カメラや道路標識に満ちた、現在の日本を撮影することで、私たちがどれほど制度的な環境に囲まれて生きているかを浮かび上がらせます。またクシシュトフ・ヴォディチコの《ポリスカー》は、路上生活者に車のかたちをした装置を与え、そこに通信媒体を備え付けることで、路上生活者同士が繋がり仮想空間にもうひとつの「都市(ポリス)」を立ち上げる試みです。マンハッタンのエンパイア・ステート・ビルに電波塔が取り付けられ、権力の象徴は周縁に追いやられた人々のためのインフラへと反転します。これらの作品が示すのは、ルールそのものではなく、ルールが生み出す摩擦です。路上とは、秩序と逸脱、可視化と不可視化、管理と占拠がせめぎ合う場所であり、その境界は固定されていません。

  • 銭湯山車巡行部《銭湯山車》2019
    ©Jun Tainaka

    終章、再び路上へ(展示室7前、光庭3)

    出展作家: 銭湯山車巡行部/村田あやこ

    時間、空間、政治、時代、そして個人と全体。路上は、それらが折り重なりながら、つねに書き換えられ続けてきた場所でもあります。その変化を刷新と呼ぶこともでき、失われたものへの郷愁として受け取ることもできるでしょう。しかし重要なのは、路上という切り口を通して世界を見ることで、私たちが当然のものとして受け入れてきた主観が、ゆるやかに揺さぶられるという点にあります。
    路上の像は、もともと輪郭の定まらないものであり、その境界や閾は、さまざまな実践や実験によって繰り返し引き直されてきたといえます。また、その閾値を決めているのは、法や規則だけでもありません。むしろ、人間の振る舞い、環境の変化、偶然の出来事といった無数の条件によって、路上の境界は状況ごとに生成されて、また更新されています。本セクションでは、そうした「いまの路上の境界」を探るために、二つの異なる実践を提示します。ひとつは、《銭湯山車》です。東京を中心に、各地で銭湯が次々と取り壊されていくなかで、保存に向けた運動も行われてきました。しかし現実には、多くの銭湯は建物として残されることなく、解体されてきました。この作品は、そうして失われた銭湯の「部材」を引き取るところから始まっています。建物そのものを保存することは叶わなかったものの、カランやロッカー、看板、大黒柱といったかろうじて救い出すことのできた欠片。それらを集め、組み替え、「動ける銭湯」としてつくり直したのがこの銭湯山車です。不動産としての銭湯は失われましたが、動産としての銭湯は、別のかたちで生き延びました。山車として街を巡行することで、かつて銭湯が担っていた〈人が集まる場所〉という機能は、あらためて路上へと持ち出されたのです。もうひとつは、路上園芸鑑賞家の村田あやこが初めて手掛けるインスタレーションです。路上園芸とは、軒先や路地に置かれたプランターや間に合わせの容器によって営まれる、きわめて私的な園芸行為です。金沢の街も、他都市の例に漏れず、植物を愛好し、路上園芸を楽しむ方々が多くいます。本作は、当館に訪れる観光者が植物を媒介として街と関係を結ぶプログラムです。本来はよそ者である観光客が、金沢という都市に介入する方法を模索します。路上園芸の醍醐味は、植物を育てることそのものだけではなく、同時に生まれる住民同士の関係の回路にあります。そこに観光客も介在可能な仕組みを導入します。これら二つの実践は、どちらも派手な変革を喧伝するものではありません。むしろ、確実に進行するゆっくりとした革命とでもいえるでしょう。

  • 参考文献
    武部健一『道路の日本史』(中央公論新社、2015)
    宇沢弘文『自動車の社会的費用』(岩波書店、1974)
    新宿区段ボール絵画研究会編『新宿 ダンボール絵画研究』(スワンプパブリケーション、2005)
    杉浦康平「知覚系の主語」『『遊』8号「乱視的世界像の中で」』(工作舎、1973)
    豊永政史「國府理の『相対温室』」『国府理展 オマージュ 相対温室』(ギャラリーエークワッド、2016)
    クリストファー・アレグザンダー「都市はツリーではない(原題 “A City is Not a Tree”)」(Architectural Forum Vol.122, No.1, pp.58–62、1965)

飛び地の路上展

  • Roads to Repair 能登町鵜川・にわか祭が編み直す、道と暮らし

    うかわ研究グループ(岡村健太郎、餐庭伸、木村周平、石博督和、高森順子、後藤亮平、本橋仁)
    主催:金沢21世紀美術館、株式会社太陽テント北陸
    協力:鵜川地区ふるさと再発見研究会
    会場:金沢21世紀美術館 デザインギャラリー


    能登半島内浦の港町・鵜川には、家々の間を縫う路地や商店街、かつて港と港を結んだ海の道、都市とつながる鉄道や幹線道路など、複数の「道」が重なり合って存在してきました。道は移動のためのインフラであると同時に、祭りや交流の舞台でもありました。しかし人口流出や産業の衰退、さらに2024年の能登半島地震によって、家屋や道路、暮らしの構造そのものが大きく変化しています。
    本展示は、地震後に鵜川を訪れるようになった都市計画・建築・文化人類学・社会心理学など異分野の研究者・実践者による、現在進行形の調査を基盤としています。鵜川の夏祭り「にわか祭」は、武者絵を描いた行燈を道の上で曳き、海の女神に奉納する祭礼です。調査を通して明らかになったのは、祭りが人々を再び結び、道と暮らしの関係を編み直す契機となりうるという点でした。
    本展では、にわか祭の制作プロセスを美術館内で再構成し、実際に行われる制作ワークショップを通して紹介します。人・モノ・記憶の結び直しとしての「道」を可視化すると同時に、その過程を記録し、地域社会のつながりがどのように立ち上がるのかを検証します。文化人類学でいう「メッシュワーク(編み目状の関係)」の概念を手がかりに、祭りと展示が、まちのインフラの一部となりうる可能性を探る、実践的な研究でもあります。

  • テレビで見る石川の路上 NHK金沢放送局のアーカイブズから

    主催:NHK金沢放送局、金沢21世紀美術館
    会場:金沢21世紀美術館 レクチャーホール
    入場料:無料


    テレビの地方局は、日々撮影されるニュース映像によって、その土地の日常や出来事などが、長い時間をかけて記録されてきました。もちろん、その中には路上を巡る、さまざまな歴史も含みます。こうした映像は、その土地の記憶の宝庫なのです。
    本企画は、NHK金沢放送局とのコラボレーションで実施します。金沢放送局が、撮りためてきた半世紀におよぶニュース映像、テープの数にしておよそ約14,000本のなかから、「路上」をテーマにセレクトした映像プログラムを上映します。ふだんはニュースとして消費されてきた映像を、あらためて「路上」という視点で見直すことで、かつての街の姿や、人びとの暮らしを紹介します。
    NHK金沢放送局は、こうした映像アーカイブの保存と活用において、全国の地方局のなかでも先駆的な取り組みを続けてきました。なかでも夕方のニュース番組“かがのと”内のコーナー「懐かしの映像」では、こうした資料を多角的なテーマで再構成し、石川県の近現代史を映像で紹介しています。本展示では、フィルム映像がどのようにデジタル化され、整理され、利用できるかたちへと変換されてきたのか、その舞台裏も紹介します。

カタログ予約・販売

  • 図録 『路上、お邪魔ですか?』

    ページ数:96ページ
    責任編集:本橋仁、佐藤守弘
    企画:本橋仁、木原天彦、大竹真由
    編集:臼田桃子
    デザイン:西岡勉
    印刷進行:北原和規(UMMM)
    印刷:株式会社 京都新聞印刷
    発行:株式会社フィルムアート社

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クレジット

主催:

金沢21世紀美術館[公益財団法人金沢芸術創造財団]

学術協力:
路上観察学会

協賛:

株式会社たねや、京都新聞印刷、株式会社セガ、株式会社太陽テント北陸、株式会社中川ケミカル、星野リゾート・マネジメント、株式会社LINNAS Design

協力:

株式会社竹中工務店、株式会社梓総合研究所、北配電業株式会社、北陸電力送配電株式会社、北陸製菓株式会社、日都産業株式会社、鵜川地区ふるさと再発見研究会

助成:

公益財団法人ポーラ美術振興財団、科学研究費助成事業(JSPS科研費)

後援:

現代風俗研究会、日本生活学会、高松市、日本建築学会、北國新聞社

本展は、科学研究費助成事業(JSPS科研費)の以下研究課題の助成を受けて実施しています。「芸術作品の『死蔵』をめぐる総合的研究―ヴィジブル・ストレージと公開修復の射程」(課題番号:24K03506)、「能登半島地震の復興テリトーリオ研究―ポスト近代復興手法のアクションリサーチ」(課題番号:25K01402)、「『気づかない景観』の実践的研究:路上観察学会の手法分析と再現を通して」(課題番号:25K23512)