期間:
2026年1月31日(土) - 2026年5月10日(日)
10:00~18:00(金・土曜日は20:00まで)
2026年1月31日(土) - 2026年5月10日(日)
10:00~18:00(金・土曜日は20:00まで)
金沢21世紀美術館
展示室1〜6
一般 450円(360円)
大学生 310円(240円)
小中高生 無料
65歳以上の方 360円
※( )内は団体料金(20名以上)
※当日窓口販売は閉場の30分前まで
初めて体験することなのに、以前にもどこかで経験したように感じられる。そんな「デジャ・ヴュ(既視感・既知感)」の感覚は、日常のふとした瞬間に突然あらわれます。デジャ・ヴュはしばしば、脳の情報処理や認知システムに起因するとされますが、過去の体験を呼び起こすトリガーや状況は多様であり、その全容は現代科学においても未だに解明されていません。「知らないはずなのに知っている気がする」という矛盾は、記憶の確かさや、自分という意識の連続性など、私たちが普段当然のものとして捉えている前提が揺さぶられる契機ともなります。
本展では、「デジャ・ヴュ」を手がかりに、金沢21世紀美術館が収集してきたコレクションから、絵画、彫刻、写真、映像、インスタレーションなど、さまざまなジャンルの作品を紹介します。アーティストたちは、個人的な記憶から社会の変容まで幅広い状況や主題に呼応しながら、個人と集団、記憶と記録、実体験と仮想的体験のあいだを往復する、複雑な知覚のありようを探求してきました。作品の中には、現実と虚構の交錯、モチーフや行為の反復、既存のイメージとの対話といった多様なアプローチが見られます。
近年、私たちは情報の氾濫に晒されるだけでなく、AIなどの技術によって既存の素材から生成されるイメージ、テキスト、サウンドが日々の生活に浸透し、既視感や既知感を覚える仕組みにさえ影響を及ぼしつつあります。デジャ・ヴュは、個人が体験する不思議な現象にとどまらず、現代の文化的環境そのものに組み込まれ始めているのかもしれません。デジャ・ヴュに潜む矛盾や違和感に意識を向けることは、「私」の意識や記憶を、文化、地域、言語といった背景を超えて異なる人々やもの、場所、時間へと誘い、共鳴させてくれる鍵となり得るのではないでしょうか。
本展を企画した担当キュレーターが、参加者の皆様とともにツアー形式で展覧会を鑑賞します。
日時:2026年2月14日(土)、3月21日(土) ※英語のみ、4月12日(日) ※英語のみ、5月9日(土) 14:00~14:45
会場:金沢21世紀美術館 展示室 集合場所:チケットカウンターの裏
料金:無料(要コレクション展3チケット)、予約不要
担当:宮澤佳奈(金沢21世紀美術館学芸員)
フランシス・アリス
ホンマタカシ
ルナ・イスラム
泉太郎
丸山直文
ヴィック・ムニーズ
奥村浩之
スプツニ子!
展示作家: フランシス・アリス
展示室1では、フランシス・アリスによる「デジャ・ヴュ」と題されたシリーズを紹介します。小さなカンヴァスに描かれた絵画群は、風景や物語のワンシーンを切り取ったように見えますが、夢や心象風景のようにも見え掴みどころがありません。また、そこに登場する人や動物も、特定の解釈をすり抜けるような不明瞭なジェスチャーの最中にあるように見えます。こうしたイメージは観る人の個人的な記憶や無意識の領域に訴えかけると同時に、そのモチーフや、どこか意味深なタイトルからは、境界や紛争、移動、政治的理由による離散といった社会的・政治的な力学も想起されます。
初めて出会うはずの物事におぼえる既視感や既知感は、個人の記憶の複雑さだけでなく、私たちが集団として共有する記憶とも密接に関係しています。親しみやすさと不穏さ、意味の不安定さが同居する本シリーズは、個人的な知覚が「私」を超えたより大きな出来事や他者の経験へといつの間にか接続されていく感覚を呼び起こします。
展示作家: ルナ・イスラム
ルナ・イスラムによる映像インスタレーション《縮尺(1/16インチ=1フィート)》では、多くの人が無意識で受けとめている「映画」というメディアの手法や美学が引用・再構築され、大小2つの映像による空間として出現します。本作の舞台となる立体駐車場は、撮影時にはイギリスにあるゲーツヘッドという都市に実在していたもので、映画『狙撃者』(イギリス、1971年、マイク・ホッジス監督)の舞台となったことでも知られています。
サスペンス映画を連想させる表現言語—役者のまなざしや仕草、カメラワーク、画面の切り替え、照明、音楽など—は、観たことのある映画を断片的に再び鑑賞しているような感覚を与えますが、ある瞬間から、実体とセット、建築とその模型がアップテンポな音楽とともに交錯し始めます。前後に重なるように設置されたスクリーンによって、鑑賞者は全てを把握することができないまま、既知と未知が錯綜する世界を彷徨います。
展示作家: 丸山直文
丸山直文による《color of river》は、カンヴァスに絵具を滲み込ませる「ステイニング」という技法で制作されています。丸山が長年取り組んできたこの技法では、描いたイメージがその瞬間に滲んで消えていき、作家の意思や筆致だけでなく、素材そのものの性質や力が痕跡として画面に共存します。本作では川面の流動性や水平の広がりが、水性アクリル絵の具の滲みによって幻想的に表現されています。
同様の構図を天地に反転させた二枚組のカンヴァスは、一見鏡像のようでありながら、鑑賞するうちにそれぞれの滲みや筆致の差異が明らかになり、どちらが実像でどちらが虚像なのか、曖昧さを内包しています。判別可能な具象的なモチーフと、風景に広がりを持たせる抽象性とが融解するさまは、経験と記憶が互いに作用し合うような、双方向的な知覚のあり方を連想させます。
展示作家: スプツニ子!
スプツニ子!による「Tech Bro たちの⼈類論争」シリーズでは、モニターに映し出された男性二人が「労働」や「民主主義」といった、現代の価値基準やこれからの社会のあり方に関する議論を展開します。タイトルにある「テック・ブロ(Tech Bro)」は、アメリカ・シリコンバレーを代表としたテクノロジー業界で働く若い男性を指す俗語で、2010年代に広く使われるようになりました。本作に登場するのは、作家自身の容姿や声をこのステレオタイプに沿って「白人男性化」した人物像で、AIモデルにより容姿や話し声が生成されています。
本作において「テック・ブロ」は、主に20代から30代前半の白人男性で、IT企業のエンジニアやスタートアップ創業者などでテクノロジーの分野に強い関心を寄せ、しばしば自身の能力や知識を過大評価し、高収入や社会的地位を重視し、成功した起業家を崇拝する傾向にあるなど、具体的な人物像が与えられています。テクノロジーが生活のあらゆる側面に浸透している現代において、世界中の多くの人々に関わる制度やインフラが一握りの業界や偏ったグループの決断に左右される状況は、喫緊の課題となっています。このことは同時に、AIが生成するイメージ、テキスト、サウンドには元となるソースがあることを示唆します。これらの条件が、社会の中の何を再生産し、どのような既存の影響を反映しているのか、という問いもまた、既視感や既知感の裏で私たちが直面する現実の一つなのです。
展示作家: 泉太郎
「くすぐられる夢を見た気がする」シリーズは、泉太郎による映像と彫刻のインスタレーションです。映像では、一方にスポーツ選手の一瞬を捉えた雑誌掲載写真、他方にその選手と同じ態勢になるよう作られた彫刻の上でじっと静止する人を写した様子が、一つの画面に並置されています。その前には、映像に映っている彫刻が空席の状態で置かれています。
本展で紹介する3作品では、サッカー選手によるアクロバティックな態勢を撮影した写真が登場します。メディアで繰り返し使用されることで無意識のうちに私たちに刷り込まれているイメージは、ステレオタイプとしてある種の既視感を引き起こしますが、それを再現しようとする映像と並置されることで不自然さが際立ちます。また、映像と実物として二重に現れる彫刻は、既存の家具を、写真と同じポーズになるよう家具職人と共に改造したものです。躍動感のあるスポーツ選手の写真が、現実とも虚構とも言えない宙吊りの状態にあるとすれば、その再現はメディアに封じられた身体を、生身の身体に戻そうとするプロセスであると言えます。作家は当たり前とされる物事からズレや違和感を顕在化させ、ユーモアと摩擦を介して複雑な認識の在りかを探ろうとしています。
展示作家: 奥村浩之
金沢美術工芸大学で彫刻を学んだ奥村浩之は、1989年よりメキシコで活動し、現在はメキシコ・ハラパと金沢を行き来しながら活動しています。ハラパにはメソアメリカの古代文明の石像が数多く遺っており、奥村の作品には風化した古代遺跡から受けた影響も窺われます。古代社会において、石を彫り、象ることは共同体の表現でしたが、奥村はベラクルス州の公共彫刻や、奥能登芸術祭の屋外彫刻も手掛け、個と共同体と彫刻された立体との関係性についての課題を探求し続けています。
奥村は、抽象的な形をモチーフにメキシコ産の石を彫り、石の断片を緻密に再構成しながら、自然に風化したような質感を作品全体にもたらしています。《Historias(ストーリーズ)》では、人々の記憶の片隅にあるような文明社会の物語とともに、ひとつひとつの立方体から階層を持つコミュニティ、繰り返される人の営みなどが想起させられます。他方で、無数の穴が開けられた立方体の積層は地域文化の位相を越えたひとつの記号のようにも映り、あるいは石彫の痕跡を筆触のように辿ることで、見る人に時間や記憶の連鎖を感じさせます。《Trayectoria(軌道)》や《Ollin(ムーブメント)》では、 石塊に幾何学的でかつ生き生きとした生命力が表れ、視覚的なリズムをもたらしています。
展示作家: ヴィック・ムニーズ、ホンマタカシ
ヴィック・ムニーズによる「ピクチャーズ・オブ・エアー」シリーズでは、大判の写真に輝く無数の点が映し出されますが、これらは実際の星空を撮ったものではありません。人類初の月面到着、ベルリンの壁崩壊など世界史上の重大な事件の発生した場所で、当時眺められたであろう天体を、NASAが開発したソフトを用いて割り出したものです。星の配置図は、透明なヘアジェルを敷いてその中に空気を吹き込む独特の方法によって構成されています。ムニーズは、報道写真や美術史上の名作を、チョコレートからゴミまでさまざまな身近な素材で再現し、写真として撮影した作品で知られます。
本作で大画面に表わされた星々は、身体を圧倒するスケールで星空に包まれる身体感覚を喚起させます。一方で各写真の下にはその天体図が示す地名、座標、日時などが詳細に記されており、これらが歴史的記録に基づき客観的に構築されたものであることを静かに示します。写真による表層のイメージは、身近な素材であるヘアジェルと、遠く離れた何億光年先の星の光とに同等の価値を与えます。ここでは素材としての物質、さらに記された記録とそこから想起される事象の記憶といったような知覚の重層性が一平面に集約されています。
ホンマタカシによる《Tokyo and My Daughter》は、少女の成長をとらえた写真と、東京の風景の写真とから構成されています。家族の生活空間や少女の視線は、その先に家族が構えたカメラがあることを推察させ、一冊の家族アルバムからの抜粋のような印象を与えます。またタイトルからも、ホンマが自身の娘の成長を追った記録であるという推測を呼びます。しかし作家と少女との関係性はタイトルにあるそれとは異なっており、本作では被写体の家族や知人が実際に撮影した写真と、作家本人が撮影した写真とが並置されています。
子供の成長をとらえた写真は、通常であれば家族という限られたメンバーのみが共有する時間や空間をしめす痕跡です。しかし本作では、作家による選択や再撮影といった介入により個々のイメージは文脈から切り離され、代替可能な一枚として扱われます。見る側が可視化された世界を解釈することで簡単に現実を把握したと考えるのは、写真というメディアが持つ特徴のひとつであり、ホンマは単純ながら深長な仕掛けによって「見る」ことの本質を炙り出して見せます。
金沢21世紀美術館[公益財団法人金沢芸術創造財団]
北國新聞社